人生の最期に読む本|第10回 千澤のり子 エッセイ

 第8回に登場した親友・Sも、第9回で触れた我孫子武丸さんの大ファンでした。
よく我孫子作品について語り合ったのに、なぜかSは『殺戮にいたる病』を読んでいませんでした。「そんなに面白い作品なら、読みたい本がなくなったら読むさ」と言い、「早く読みなよ」と急かしても、答はいつも「死ぬ前にはね」と返ってきました。
記事を書いてから、彼はあの本を読んだのだろうか、きっと読んでいない、こんなに早く逝くなんて本人も思っていなかったはずと、こんなことを考えました。
私も、死ぬ前には読みたい本はあります。結構たくさんあります。
その中の1冊が、鮎川哲也『白の恐怖』(桃源社)です。
鮎川作品は、主に角川文庫で読んでいました。写真は大人になってから買い直したもので、所有本の全部ではありません。版違いでもないのに複数持っている作品もあります。鮎川哲也の文庫
『白の恐怖』は、かなり前から入手困難になっていて、すごく欲しかった本でした。
初めて見つけたのは、2001年。インターネットをしているミステリ好きの人なら誰でも参加できる宿泊イベント「MYSCON2」の古本オークションに出ていたのです(現在、このイベントは終了しています)。
 欲しい。どうしても欲しい。
 けれど、所持金はほとんどありません。もともと自分の自由になるお金なんてなかった頃です。イベントに参加できたのも、赤子だった息子を実家に連れて行くとお小遣いをもらえたからでした。
白のきょう
 休憩時間に、あまりにも本をじっと見つめていたせいか、ミステリ系の個人テキストサイトを運営していたネット仲間に声をかけられました。掲示板や集団チャットで文字だけの会話をしていて、オフ会でも数回会ったことのある方です。
事情を説明したら、その人は突然、私の膝の上に財布を落として言いました。
「好きなだけ使っていいですよ」
確かに私は律儀な性格ですが、本名などの個人情報をまったく知らない方にそこまでお世話になることはできません。リアルでよく知っている仲の人でも同じです。
当然、断りました。
「だって、ずっと探していたんでしょう」
 でも、その人は有無を言わさず、どこかに立ち去ってしまいました。相手は男性なので、客室に行かれたら追いかけようもありません。私はありがたくお借りすることにしました。
 オークションは旅館の大広間で真夜中に始まりました。広い場所の隅っこで行われたので、周囲はすでに宴会も始まっています。
『白の恐怖』の順番は、かなり後でした。待っている間、誰かに勧められるままに、強いお酒を水のように飲んでいました。
実はそれから、ほとんど記憶がありません。たぶん、入札後、すぐに気持ちが悪くなって、別のネット仲間に続きを託してトイレに行き、まだ気持ちが悪いので近くの語り部屋でちょっと休憩し、再びトイレに行き……としていたのでしょう。その間に、ネット仲間の方が競り落としてくださったのでした。
 人様にお金を借り、人様に落札してもらうなんて、一生の不覚です。後にも先にも、こんな無礼なことはしていないはずです。本当に恥ずかしいです。
 落札価格は8,900円。
決して安くはないけれど、でも、高くもありません。この値段では手に入らないでしょう。抱きかかえたまま語り部屋で寝落ちしていて、気がついたら朝になっていました。
 もちろん、財布は当日に、お金は後日、人生の転機用の貯金を崩して、直接お返ししました。おふた方には何度もお礼を言いましたが、改めてお世話になりました。ありがとうございました。
 一生大事にしようと誓ったのに、もったいなくて、未だに作品は読んでいません。数年前に『鮎川哲也探偵小説選』(論創社)に収録され、つい先日光文社文庫で復刊し、誰もがすぐに読める状況になったけれど、私が読むのはまだまだ先になりそうです(論創社版は探偵小説研究会編『2018本格ミステリ・ベスト10』(原書房)の復刊コーナー<注1>と装幀座談会<注2>で取り上げられています)。
 人生の最期に読む本を決めるとしたら。
 それが、私にとっては『白の恐怖』であります。
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(編集者:注)
<注1>最後の写真(『2018本格ミステリ・ベスト10』「復刊ミステリ2017」の頁より。)
<注2>同著「装幀大賞選考座談会」の頁にて。千澤のり子先生は評論家「羽住典子」先生名義で誌面の他の頁にもご登場致します。

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