「半分オトナ」と児童虐待について |第33回 千澤のり子 エッセイ

 アンソロジー『平成ストライク』(南雲堂)には「児童虐待」をテーマにした短編「半分オトナ」が収録されています。
 テーマと一緒に依頼をいただいたときは即答しましたが、電話を切った後、とても迷いました。
 なぜなら、自分が虐待していると思われるかもしれないという恐怖感がつきまとっていたからです。
 依頼をした編集者も、まさかそんな抵抗心があったとは、想像もつかないでしょう。極端に疑心暗鬼な考えだとは自覚しています。
 ただ、二十数年前の記憶が、今でも私を縛り付けています。

 それは息子が生まれた年のお正月。中学時代から付き合いのあった同級生から、メッセージ付きの年賀状が届きました。
 「元気? ギャクタイするなよ」
 いわゆるワンオペ育児の毎日で、今のようにインターネットを使った交流などしていなかった時期です。孤独で、睡眠不足で、満足に食べてもいませんでした。同世代の人たちは仕事が充実してきた頃で、自由に暮らしているように見えます。羨望がまったくなかったわけではありません。
 だからといって、虐待をするなんて、考えてもいませんでした。
 年賀状を送ってきた人は、たぶん冗談のつもりだったのでしょう。明るくて楽しくて、友情に厚い人でもありましたから。
 一方、私は。
 虐待をする人間に見えるのだ。
 確かに聖人君子とは言い難い性格ではあります。毒も愚痴も吐くし、人を憎む気持ちも持っています。
 でも、放っておくと命を落とすくらい明らかに弱い者に対して、そんなことはできません。実際に育児をしている場面を目撃していない人の目には、自分がそんな人間に映るのだと知ってしまいました。
 それからずっと、無意識に虐待をしているのではないかという恐怖と戦っています。二人目の育児が終盤に入っても、他人から見た私のイメージは変わらないままだろうと思っています。
 このことがきっかけで、私は虐待に興味を持つようになりました。日々のニュースを追うだけでなく、フィクションからも虐待を知ろうとしています。
 特に印象に残っているのが、真梨幸子『えんじ色心中』。終盤に出てくるネグレクトされた幼児のある行動は、今でもトラウマとなっていますが、残酷すぎる描写力に圧倒されました。同作家の『殺人鬼フジコの衝動』は、ミステリとして落とし込んだ技術力に感服しています。おぞましい事象も興味を引く類の面白さに落とし込める手腕に憧れます。

 天祢涼『あの子の殺人計画』も虐待がテーマになっている作品です。メイントリックが虐待と相性があうことに驚きました。貧困も虐待の一部に入るならば、同じ世界観の前作『希望が死んだ夜に』もかなり高く評価しています。子供視点では、ずっと辛い思いをしているわけではなく、楽しみもあるし冗談も言うし笑顔も見せます。そのギャップのリアリティが読みどころでもあります。

 「半分オトナ」の執筆に入ったとき、虐待描写を書けるのかと不安になりました。虐待されている側に焦点を当て、架空ではありながらも現実の問題とリンクさせられましたが、具体的な虐待場面は描くことができませんでした。
 それでも、褒めてくれる感想が多く、書いた人間に対する懸念事項は、観測範囲では見かけません。私の心配は取り越し苦労であったわけです。
 今では、周囲から見たら虐待だけれど、親から見たら愛情をたくさん与えているといった、家族と他人のかみ合わない心理状況に興味を持っています。映画を例にあげると、洋画では『存在のない子供たち』、邦画では『万引き家族』『MOTHER マザー』が当てはまるでしょうか。『MOTHER マザー』では母と子の関係を「共依存」と表していましたが、一言では括れない関係性が伝わってきました。
  フィクションと比べたら、私は虐待とは縁遠い子育てをしてきたはずです。でも、自覚していないだけで、無意識に子供たちを虐げていたのではないかと、ときどき考えます。
 もしも自分が虐待をしていたのなら、どのような贖罪をすればいいのか。
 いつか、小説の世界でこの問題を解決できたらと思っています。

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