新派『八つ墓村』と原作のある作品について|第29回 千澤のり子 エッセイ

 先月、集団で新派『八つ墓村』を観に行きました。総勢15名以上。初対面の人も多い中、くじ引きで決まった席は、たまたま友達の隣でした。ミステリとは関係のない場で仲良くしている女の子です。
 前半終了後。
「のりりんさん(私の通称)、私、『八つ墓村』を知らないのです」
「実は私もなんです」
 友達も、その隣の席にいらした初対面の方も、原作をご存じないとのことでした。
 知っている物語を観るのと知らないのとでは、楽しみ方がまったく異なるからです。
 長いなと感じた前半は、人間関係を把握するためには欠かせません。なぜここをこのように変えたのだろうという疑問も生じません。休憩中に犯人が誰なのかと推理をすることもできます。
 お二人とも恐縮していましたが、「すごく面白い」「原作も気になる」と楽しそうにお話をしていました。間違い探しをするかのように観劇していた私には、とても羨ましい光景でした。
 小説がメディア展開する際に、まずは原作を読んでおくという人は少なくありません。私もそういう性格です。ノベライズ化された作品を読むときも、先に原作を知っておくようにしています。
 ですが、もともとこだわりがあったわけではありません。前回観た新派『犬神家の一族』は漫画を最初に読みました。ほかには、江戸川乱歩もポプラ社の子供向けシリーズの前に漫画から入りました。角川映画の作品は、映画を観た後に原作を読み返しています。そもそも、大好きな『不思議の国のアリス』は、「すくすくレコードブック」を聴いて覚えました。
 これらに限らず、原作を知らなくても楽しめる作品はたくさんあります。子供の頃のように、他メディアから先に触れ、夢中になって原作を読んだ作品もあります。角田光代『八日目の蝉』、新海誠監督の映画『秒速5センチメートル』、津雲むつみ『風の輪舞』がパッと思い浮かびます。
 逆に、原作を知っているから楽しめなかったのではないかと思う作品にも、たまに出会います。「原作返してよ」と言いたくなったこともありました。文句を言いながらも、表現方法が異なるだけの同じ物語に対して優劣をつけて比べるのは、作品に対して失礼ではないかとも感じています。
 メディア展開した作品は別作品だと割り切って楽しめばよいのですが、なかなかうまくいきません。きっと、評論の世界にいるのに原作を知らないのは恥ずかしいという思いが、心のどこかにあるのでしょう。そんなちっぽけなプライドが、物語を様々な角度から楽しむということを邪魔しているような気もしています。
 ところで、原作を読んでおいて特によかったと思っている作品は、2作品あります。
 1つが、東野圭吾『容疑者Xの献身』です。探偵役の物理学者・湯川を福山雅治が演じたからではありません。開始15分以内のお弁当屋さんのシーンで、ある会話がなされます。聞き逃してしまうくらいの些細な一言ですが、それが重要な伏線になっています。原作を知っているからこそ印象に残る部分で、映像だから、功を奏したのではないかと思っています。
 もう1つは、乾くるみ『イニシエーション・ラブ』です。映像でどう描くのか興味が湧いてきますし、音楽の効かせ方や小道具の使い方は事前に内容を知っているとさらに楽しめます。
 冒頭に戻って『八つ墓村』は、メディア展開された全作品を抑えてはいません。新派版は、過去の殺戮シーンの舞が素晴らしかったことと、鍾乳洞の表し方が印象に残っています。また、犯人を知っていたらクスッとなる場面があります。大きく異なっていたことがありましたが、それは配役の関係ではないかと推測しています。
 翌日、神保町の古本屋さんに行った際、思わず原作を購入しました。現在、20数年ぶりに再読中です。やはり序盤が長く感じてしまいますので、私は展開の早い作品が好きなのだと改めて思いました。

 画像は家に残っている録画です。一番好きな稲垣吾郎主演のドラマは消えてしまっているので、再放送を心待ちにしています。

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