新年あけましておめでとうございます。
年末はバタバタと忙しく、ハプニング、イレギュラーな事態、トラブル、いきちがい、混乱、混線、コンフュージョンと、エッセイを書いている余裕もなかった(いいわけ)。なによりも驚いたのは、路上で転倒したことである。10年来通いつづけた出勤コースで。
12月の札幌は記録的な降雪量の少なさ。まとまった雪が降り、一面の銀世界になるものの、しばらくすると雨がざあざあと降り、すべて溶けて流れ、路面がむき出しになるのだ。「歩きやすい」「車のタイヤが滑らない」と一般の札幌市民には好評だが、雪で商売している方々(スキー場、雪まつり関係者など)もいるので、かんたんに「めでたしめでたし」とはいえない。
12月4日の夜。雨ざあざあで暗い道を、わたしはいつもどおり出勤のためにてくてく歩いていた。雪などまったく積もっていない。で、もう30秒で職場に着くかというとき、段差に足をとられ、転んだのだ。
傘を差していたので、とっさに手が出ない。むしろ両手を広げ、「大好きだー! 北の大地が大好きだー!」といった勢いで路面を固く抱きしめにいった。頭部からアスファルトに激突。大地は「よしよし」といわんばかりに、わたしの額にチュッとキスしてくれた。
立ちあがると、ぽたぽた血が落ちてくる。(鼻血?)と思ったのだが、額が割れていた。すぐ職場に行き、救急医療キットを出してもらい、でかい絆創膏をピタッと貼った。今はさすがに傷がふさがっているが、大地のキスマーク、額にしっかり残っている。個人的には「んー。丹下左膳」なのだが、若い知人には「ハリー・ポッターみたいですね」といわれている(うれしくない)。
そんな激動の12月を制し(?)、やってきたのが例年並みに寒い1月である。
日本では怪談は夏にやるものと決まっているが、イギリスでは冬にするらしいと知ったのはいつごろだろう? ともかく何かの本で読んだか、ひとから聞いたかし、「ふーん」と思っていたのだ。決定的にその証拠をつかんだのは、シェークスピアである。
シェークスピアは中学生のころ、福田恒存訳で何篇か読んでいたのだが、「よく分からないな」という印象であった。「暁の薔薇色の指先が東雲(しののめ)に触れるころ」みたいな台詞回しで、首をかしげながら『ヴェニスの商人』『じゃじゃ馬ならし』などを読んでいた。30歳ごろ、「もういちど挑戦してみよう」と白水社の小田島雄二訳で読んでみたら、これはスラスラ読めた。四大悲劇より、ラブコメや歴史劇の方が面白いと気づき、特に夢中になったのが『ヘンリー四世』。だが今回、触れるのは『冬物語』だ。小田島訳は手もとにないので、写真は松岡和子訳のちくま文庫である。
ハーマイオニというと、現代のおおかたの日本人はそれこそ『ハリー・ポッター』の登場人物を連想するかもしれない。しかし、『冬物語』に登場するハーマイオニは、シチリア王レオンティーズの妻、つまり王妃である。レオンティーズは自分の妻とボヘミアの王との姦通を疑い、嫉妬に狂う。この疑惑には客観的な証拠が何もなく、唐突で理不尽だ。しかし、疑惑に目がくらんだ王は自分の妄想から逃れられない。
次の引用は、レオンティーズが不義密通でハーマイオニを告発し、難詰する直前のシーン。これから起こる悲劇を予感せず、母親のハーマイオニが息子の、王子マミリアスと(それと知らずに)最後の会話を交わすところだ。
ハーマイオニ 何かむずかしい議論でも始まったの? さ、いらっしゃ、もういいわ。
ここに坐って、お話をしてちょうだい。
マミリアス 楽しいのがいい、それとも恐いの?
ハーマイオニ なるべく楽しいのがいいわ。
マミリアス 冬には恐い話がいいんだけどな、僕。
妖精や鬼の出てくるお話知ってるよ。
ハーマイオニ じゃ、それにしましょう。
さ、ここに坐って。さ、どうぞ、妖精や鬼で私を恐がらせて。
あなたのお得意でしょう。
「冬には恐い話がいい」という王子マミリアスのいうとおり『冬物語』は、おそろしい展開となる。この直後に王レオンティーズは、母子を永遠に引き裂く。マミリアスは心労のあまり命を落とし、その知らせを耳にしたハーマイオニもショックのあまり……。
と、あらすじを紹介すると陰々滅々とした鬱展開のようだが、最後に「あっ」と驚くサプライズがある。「『冬物語』はシェークスピアがただ一度だけ観客をだました作品と言われている」と文庫解説で前沢浩子が指摘するとおりだ。
もっとも、その不信や疑惑、妄念、嫉妬の恐ろしさ、取り返しのつかなさは単純な「めでたしめでたし」を許さないのだけど。
ともあれ、少なくともシェークスピアの時代から(『冬物語』は1611年ごろ書かれたらしい)、英国では「冬=怪談」だったようだ。
そこで、ひとつ疑問がわいた。
メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818)だ。
SFの嚆矢ともいわれることのある、この作品の誕生秘話は次のとおり。バイロン卿、パーシー・ビッシュ・シェリー、その愛人メアリー(まだ正式の妻ではなかった)、ポリドリがスイス郊外で親交を深めている「夏」に、「みんなで怪談を書いてみようよ」と企画がもちあがるのだ。
ん? 夏? それではまるで、日本と同じではないか。英国(正確にはスイスだが、出てくるひとたちはだいたい英国人)では、怪談は冬なんじゃ……?
これは有名なエピソードで、日本で刊行されている『フランケンシュタイン』文庫版の冒頭にはこの挿話が1831年版の「まえがき」として挿入されている。その文章によると、
「その年は、雨の多い鬱陶(うっとう)しい夏になり、降り続く雨のために何日も家に閉じこもることもたびたびだった」(芹澤恵訳)
また、1818年の初版についた序文には次のようにある。
「筆者は一八一六年の夏をジュネーブの郊外で過ごした。あの年の夏は寒くて、雨が多く、夜になると薪が赤々と燃える暖炉のまわりに集まって、ときによってはたまたま手に入ったドイツの幽霊物語を読んで愉しむこともあった」(芹澤恵訳)
季節は確かに「夏」なのだが、「寒さ」「暖炉」「閉じこめられた」という周辺環境はまさに「冬」。こうなると『フランケンシュタイン』も、英国伝統の怪談である「冬物語」のひとつとみなしていいようである。
この連載エッセイ第2回に登場した台湾のホラー&ミステリ作家の既晴(きせい)さんが指摘していたが(第2回「マジックショー/トークショー」をご参照ください)、SF作品は機械文明に対し悲観的な作風が多い。人造人間が人間に復讐するという話の構造がそのまま、人間と機械(被造物)との葛藤、相克、敵対となる。この発想は20世紀の映画、マンガ、ドラマなどサブカルチャーに多大な影響を与えつづけている。そして、こういう物語を作ってしまう人間の心的傾向は一般に、フランケンシュタイン・コンプレックスと呼ばれる。
創元推理文庫版の新藤純子の解説は、フランケンシュタイン・コンプレックスでシェリー『フランケンシュタイン』とP・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(1968/映画『ブレードランナー』原作)をつなげて論じる。この話題は、和久井清水(わくいきよみ)さんの「なぜ、人間とそっくりにするのか、何か不測の事態が生じた時のために違いが分かるようにするべきだ」という指摘(第2回エッセイ)とからんでくるだろう。和久井さんの発想、関心は「人間が機械を制御する」もので、SF史の文脈ではアイザック・アシモフのロボット観とかさなる。アシモフのロボットは最初から、人間の命令に服従するようプログラムされており、反抗できない。人間と機械との共存を理想とするC/Fe文化(Cは炭素=人間、Feは鉄=機械)の模範的な成功例として『鋼鉄都市』(1954)がある。アシモフは、フランケンシュタイン・コンプレックスから解放された機械文明の姿を模索した(ここらへんは、新藤純子の解説をもとに発想している)。
わたし個人は、『フランケンシュタイン』をダブル、ドッペルゲンガー、二重化のイメージでとらえ、その考察を深めようと読んできた。そもそも、世間ではフランケンシュタイン=人造人間(被造物)というイメージが流通しており、ちょっとモノの分かったひとたちは、こう指摘する。
「ちがーう! フランケンシュタインは人造人間をつくった博士の名前だ。人造人間には名前がない。たんに『怪物』と呼ばれているだけだ」
まるで鬼の首でも取ったかのような勢いであった。この傾向は最近、下火になったようで「フランケンシュタイン」=人間/「怪物」=人造人間という区分が一般化したのか、と思う(本当は、どうなんだろう?)。ま、単に多くのひとは「そんなの、どっちでもいいよ」と思っているだけかもしれない。
にもかかわらず、「フランケンシュタイン=怪物=人造人間」という誤解は根強い。
それはなぜか?
ハマープロの映画のせいだ、というひとがいる。俳優ボリス・カーロフのイメージが決定的だからだろう。また昭和の名作漫画『怪物くん』(藤子不二雄A)のせいだ、というひともいる。「フランケン」と呼ばれるキャラクターが怪物王子の部下だからだろう。
では、原作ではこの「怪物」は何と呼ばれているのか?
日本語訳で「怪物」ということは、「monster」か?
実際に、原文に当たって確認するのがいちばんである。
そんな疑問を抱いて、15~20年前に、辞書を引き引き、『Frankenstein』を読んだ。なにしろ、英文学の研究などしたことなく、専門家でもまったくない。だから自分にとっては目新しい発見だったが、これから述べることは研究者の間では常識、いや研究者でなくても英語圏ではまったく当たり前で、いちいち口にすることさえない初歩的、基本的なことかもしれない。以下では『フランケンシュタイン』の展開に言及し、ネタバレになる。未読の方、結末を知りたくない方は、ご注意ください。
結論からいってしまえば、「monster」一辺倒ではない。日本語訳は「怪物」と呼ばれることが多いのだが、もっと多彩な言葉で呼ばれるのだ。
Creature(被造物)
Wretch(みじめなやつ・かわいそうなやつ)
Daemon(=Demon 悪魔・鬼)
Fiend(悪魔・悪鬼)
Monster(怪物)
Adversary(敵対者・仇敵)
以上のような呼称がある。人造人間が誕生した直後、しばらくは「creature」という呼び方が一般的で、そこには善悪、無害有害の価値判断がない。しかし、物語前半で支配的な呼び方は「wretch」だ。わたしはこの本を通して、「wretch」という英単語を覚えてしまった。実際、ヴィクター・フランケンシュタインの手によって、好奇心や研究心、生命の秘密を解き明かしたいという野心から生み出された人工生命体は「自分のような存在は世界にひとつしかない」という恐ろしい孤独に蝕まれ、苦悩する。そして、「自分の伴侶を作ってくれ。お前にはその責任がある」とヴィクターに強要する。
自我をもち、人間的な感性をそなえた生命体を生み出すことがどういうことか、ヴィクターはまったく考慮していなかった。「creature」が何を考え、どんなことに悩み、苦しむか、彼は予想しなかったのだ。ただ「作れそうだから作ってみた」だけである。そんな「wretch」の懇願を承認し、いちどは女性の人造人間の創造を請け負ったヴィクターだったが、その完成の直前で翻意する。人類とは別種の人造人間同士が結婚し、子どもをつくる。その子どもたちは成長し、一族を増やしていくだろう。やがてはこの惑星で、人類と覇権を争う存在になるかもしれない。今度は未来のことをやたら考えてしまうヴィクターなのだった。そこで結局、完成間近の女性生命体を破壊してしまう。
その現場を目撃した「creature」は激昂する。「お前はおれの花嫁を殺した! 復讐してやる」――こう心を決めた後、この生きものが「wretch」と呼ばれることは、ほとんどなくなる。物語全体は3巻構成で、このシーンは3巻第3章。つまり、大部分は「creature」や「wretch」と呼ばれる印象である。
もっとも、ヴィクターの弟、ウィリアムを殺したのはこの生きものだった。偶然、出あった少年がフランケンシュタインの家族だと知り、首を絞めて殺してしまう。1巻でウィリアムの死は明らかになるが、3巻まで犯人は不明。「wretch」が犯行を自白するあたりから、この人工生命体は「monster」とひんぱんに呼ばれるようになる。
My promise fulfilled , the monster would depart forever .
こちらは約束を果たすわけですから、あの怪物も永久にいなくなる……(芹澤恵訳)
それ以前も、外見の醜悪さのせいで「monster」と呼ばれることがあるにしても、「怪物=monster」が定着するのはこれ以降。原書では全225ページの157ページから。68ページ分だから、約30パーセントだ。これは原文に当たってみないと分からなかった。
さてでは、「wretch」という言葉は、もう出番がないのか?
これがあるのだ。
The laughter died away ; when a well – known and abhorred voice , apparently close to my ear , addressed me in an audible whisper , ‘ I am satisfied : miserable wretch ! you have determined to live , and I am satisfied .’
笑い声はやがて消えていきました。そして、わたしのすぐ耳元で、今では聞き慣れたあのおぞましい声がはっきりこう囁いたのです。「それでいい、哀れな者よ。生きることにしたのだな。それでいい。おれは大いに満足だ」(芹澤恵訳)
第3巻第7章。ヴィクターが愛する者たちの墓を訪れ、今や仇敵となった「怪物」への復讐を誓った直後のシーンだ。ヴィクターの誓いの言葉は「怪物」に聞かれ(神出鬼没!)、その笑いを誘うことになる。つまり、「wretch」はここで「怪物」からヴィクター・フランケンシュタイン(=人間)にむけて放たれているのだ。「かわいそうなやつ・みじめなやつ」=フランケンシュタインという、呼び名の転位が生じている。
これは作者、メアリー・シェリーが意図した表現上の工夫だろう。原書で読めば、人造人間とフランケンシュタインが混同されるよう、あえて描かれていると分かる。両者は同等で、置換可能な存在。ダブル。ドッペルゲンガーなのだ。後世のひとびとが混同するのもむべなるかな。むしろ作者の意図に沿った読解をしていることになる。
この人間対人造人間の対決の行方は、実際に読んでみて確かめてほしい。また、さまざまな夢想の菌糸をはぐくんだ『フランケンシュタイン』という菌床についての、学問的なアプローチに関心のある向きには、廣野由美子『批評理論入門 「フランケンシュタイン」解剖講義』(2005/中公新書)をお薦めしたい。
人間の作り出すものは結局、人間にひどく似ている。人間は自分自身と同じものしか作り出せない。人間が「怪物」を作り出すとしたら、作り出した人間も「怪物」なのだ。フランケンシュタイン=怪物という誤解=正解は、そのことを証明している。そう。勘違いは、たまたま正鵠を射ることもある。
(了)
大森葉音(おおもり・はのん)
北海道生まれ
本格ミステリ作家クラブ会員
作家。2000年に「大森滋樹」名義で「物語のジェットマシーン―探偵小説における速度と遊びの研究」で第7回創元推理評論賞佳作入選。
探偵小説研究会に所属し、ミステリの評論活動をはじめる。『ニアミステリのすすめ―新世紀の多角的読書ナビゲーション』(原書房)、『本格ミステリ・クロニクル300』(原書房)、『本格ミステリ・ディケイド300』(原書房)、『日本探偵小説を読む』(北海道大学出版会)、『日本探偵小説を知る』(北海道大学出版会)に共著者として参加。現在、北海道新聞日曜書評欄「鳥の目虫の目」を3~4か月に1度、持ち回りで執筆している。
2013年に「大森葉音」名義でファンタジー小説『果てしなく流れる砂の歌』(文藝春秋)を上梓し、小説家としてデビューする。2015年には本格ミステリ『プランタンの優雅な退屈』(原書房)を刊行している。地元札幌の豊平川サイクリングコースを自転車で走り回るのを楽しみとする。
X(旧ツイッター):https://twitter.com/OmoriHanon