私の共感性羞恥作品|第21回 千澤のり子 エッセイ

 先日、下北沢にある書店B&Bで行われた「2019年度上期ミステリー総括(国内編)」を見に行きました。イベントは、3人の書評家が今年の上半期に刊行されたミステリー作品ベスト20を選出するという内容です。
 鼎談中、ある作品を紹介する際に「共感性羞恥」という造語が出てきました。共感性羞恥とは、少し前にTV番組で話題になった言葉で、誰かが恥をかく場面に遭遇したら、自分が恥をかいたかのようにいたたまれない気持ちになる現象のことをいいます。対象はフィクションに限らず、現実の場面でも、このように感じる例はあるそうです。
 取り上げられた作品ではピンときませんでしたが、私にも心当たりのある作品があります。それが『金田一少年の事件簿の外伝 犯人たちの事件簿』です。本編のエピソードを犯人側の視点で描く、ネタバレ前提の少し変わった倒叙作品です。

 倒叙ものは好きなはずなのに、なぜかこの作品は、なかなか読み進められません。おそらく、主人公である犯人が、その後どうなるかを知っているからでしょう。同じような経験をしたことはないし、これからもするはずがないのに、心が落ち着かなくなるのは、共感性羞恥によるものだということがよく分かりました。
 共感性羞恥は、「恥ずかしい」という感情だけではなく、ネットで調べた結果では「切ない」も該当するそうです。ほかには「虚しい」「痛い」なども、同様の分類ができるのはないかと思います。
 私にとっては、新海誠監督の『秒速5センチメートル』も、これに当てはまります。初恋を主題にした作品で、アニメ映画でも漫画でも心を持って行かれてしまいます。もちろん、こんな経験はしたことがありません。なのに、登場人物たちの気持ちが分かりすぎてつらくなる作品のひとつであります。
 映像作品では、藤井道人監督の『青の帰り道』も挙げられます。高校を卒業した若者たち7人の群像劇で、自分の道を進むために大事なものを失ったり、捨てたり、そのことに目をつぶっていたりする過程に、心を突き刺されました。
 小説では、貫井徳郎『新月譚』がすぐに思い浮かびます。本作の主人公は、『青の帰り道』と同様に、夢に行き詰まっている人から見たら、すごく羨ましい存在です。けれど、同時に、空っぽにも感じられます。多くの人が憧れるものを全て手に入れているはずなのに、虚しさが込み上げてくる作品です。成功者の陰の気持ちを自分のことのように味わえる、稀有な経験ができます。読了後は軽い絶望感を覚え、自分が本当に欲しいものはなんだろうとしばらく考えていました。

 登場人物に同化してしまう感覚は、共感性羞恥というよりも、共感力の高すぎる人を指す「エンパス」に近いかもしれません。専門的な診断を受けていないので確証はしていないけれど、ネットのチェック項目によると、かなりの数が該当しました。
 確かに、たまに日常生活でも他人の気持ちが分かりすぎることがあり、苦しい思いをすることも少なくありません。子供の頃に読んだ漫画・小田空『空くんの手紙』の中には、「踏まれたタンポポの痛みが分かる人」という表現が出てきます。私はずっとそういう人間になりたいと思っていますが、そのためにはいろいろな痛みを知らなければならないということを、この年齢になって実感するようになりました。
 現実の出来事で共感性羞恥などの感情は生じてほしくありません。人が恥ずかしい思いをする場面に遭遇したくないからです。
 けれど、フィクションなら、作品と自分だけの対話ですので、いたたまれない気持ちになってもまったく構いません。
 冒頭のイベントでは、「この作者の名前は覚えて帰ってほしい」と浅倉秋成『教室が、ひとりになるまで』が強く推薦されていました。そんなに刺さるのかと好奇心で読んだら、あくまでも自分基準の、良い意味での痛い作品に位置づけられました。

 このようにフィクションを求める行動は、マゾヒズムによるものなのかもしれません。幾ばくの恥ずかしさを、この文章を書いていて感じています。

よろしければシェアお願いします