泡坂妻夫『迷蝶の島』(とある古本屋さんにて)|第20回 千澤のり子 エッセイ

「ミステリ好きなんですか?」
 仕事の途中で立ち寄った古本屋さんで、ふいに私は店主から話しかけられました。
 今から18年ほど前、外回り営業の仕事をしていた頃のことです。
 そのお店は、新しく担当として割り振られた地域にありました。店頭にワゴンがあり、出入り口は2つ、半分が小説、半分に一般書を並べている、ごく普通の規模の店舗です。
 存在は知っていましたが、店内に入ったのは初めてでした。私が好む推理小説はかなり少なめです。
 その中に、気になる本がありました。
 泡坂妻夫『迷蝶の島』(文春文庫)です。
 当時は入手困難の作品でした(現在は河出文庫から復刊されているので、新刊で買えます)ので、手に取って中身を読み始めていました。

 店主は話し好きなのか、そのまま小説の話になりました。国内のハードボイルド作家の作品を中心に読んでいるけれど、本格推理小説には明るくないとのことでした。古本を仕入れる市場でも、コアな作品にはそんなに注目していなかったそうです。私は犯人当ての面白さと叙述トリックが放つ驚きと作者との作品を介した対話について語った記憶があります。
 ひとしきり話したあと、私は『迷蝶の島』を棚に戻しました。持ち合わせがなかったのです。たまたま現金を持っていなかったからではありません。給料が歩合制で、前月の売上が良くなく、その月は1冊の古本ですら買えなかったのです。
 話し込んでいるのに何も買わないのは申し訳なく思い、私は素直に自分の状況を伝えました。
「その本なら、4冊かな」
 首を傾げた私に、店主はさらに言いました。
「次に来るとき、本を4冊持ってきてくださいよ。それと交換でいいです」
 高価買取をする古書店なら、だいたいそのくらいの金額で売れます。ただし、ハードカバーの近刊で美本なら。自分の境遇が情けなくなると同時に、感謝の気持ちが沸いてきました。
「もう来ないかもしれないじゃないですか」
「だって、あなた保険屋さんでしょ? また来ますよね」
 私の職業は、見透かされていたのでした。
 その日の夜に読んだ『迷蝶の島』は、特に面白く感じました。魔球クラスには届きませんでしたが、仕掛けが情緒を生み出す、お気に入りの作品です。驚きだけでなく、文章でしか表せない美しさを味わえます。
 どの本を選んだのかはすっかり忘れてしまいましたが、そんなに間を置かずに私は再来店しました。
 その後も、店主との付き合いは続きました。「名前と生年月日の分かる人と10人話す」という、上司に報告しないとならない毎日のノルマがあり、達成できなかったときは協力してもらっていました。その都度「保険には入りませんよ」と笑顔でお断りされましたが。


 私にとっては『迷蝶の島』は思い入れの深い本ではありますが、このエピソードがあるから、余計に好んでいるのかもしれません。泡坂妻夫は『エンサイクロペディア アワサカナ』という私家版の事典があるくらい、ファンの多い作家です。その方々に対する遠慮や後ろめたさも感じているのでしょう。
 これまで人前で語った作品は、何年か前に豊島区で行われた泡坂妻夫展に寄稿したお勧め作品『ダイヤル7をまわす時』くらいです。昨年の『2019本格ミステリ・ベスト10』の企画コーナー「偏愛ミステリ」でも、泡坂作品は挙げませんでした。エピソード込みの「偏愛」は、趣旨と異なるかもしれないと思ったからです。

 ネット古書店の発展で、入手困難本も手に入れやすくなりました。電子書籍のおかげで、読みたくても読めなかった作品に触れられる機会も増えています。でも、逆に、古本屋さんに足繁く通うことが減りつつあります。
 退社後、その街に行く機会がなくなってしまったため、お店にも顔を出さなくなってしまいました。今もあの場所にあることは知っています。かなり昔の出来事なので、忘れられているかもしれませんが、いつの日か、4冊本を持って訪れてみようと思っています。

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